日本文化素描

日本の文化を語る上で最も気になるのは、それを作ったり、壊したり、利用したりする客体であると思う。

 

つまり文化を利用する人々は何者かによって、その文化というもののアイデンティティーが形成、作用することである。

 

日本文化と言っても幅広くて主に日本という国で行われている文化形式であろう。まず「文化」というものを語る前に、我々人間の身の周りに広がっている世界を眺めると、そこには何かの共通目的を成す小さい集団やそれを取り巻く環境を思い浮かぶ。会社、公益法人、学校、商店、官公庁などなどありとあらゆるそれぞれの利益集団が存在する。

 

一人個人にとって文化とはその一人ができることに限って、生活環境やその人の身分などによって営為されることが多い。食事をする、買い物に出かける、仕事をする、その上でその人は必ずある集団と出会う。食事の時にはスーパーやレストランと言った利益集団とかかわらざるを得ない。もちろんその主体もある集団に属していないと給料をもらって生活していけない。

 

 

集団と文化はこうして決して離れることができない。つまり文化とは集団のものである。いろんな状況の中で客体は社会性に紛れて個人ではなく何かの利益集団に絡むことによって、利益=目的、至る所に何かの利害関係が生じる。

 

農業社会から産業社会に至るまで、金融貨幣的な側面がいつも付きまとう。金銭で文化を買う時代になった今、民主主義や自由主義の発揚による「文化を選べられる」個人の登場はその個人の集まりである集団の性格を変えてゆく、従来の自然性から人為性の方向へと向かい始めたとも言えよう。

 

 

前近代の農業社会では村からたまたま生まれてきて地域のコミュニティーの中でカルチャーの語源である農業を営みながら社会や生活環境を形成してきた。

 

時代は産業都市への変換とともに村から街へと移り行く。上京して都会で働き都会の文化を成してきたという流れは文化の形や存在意義に大きく寄与した。黄金万能主義といささか批判的なニュアンスとして語られてきてる昨今であるが、間違いなく現代社会において文化とは「利害関係」から抜け出すことはできない。利益を生むことによって文化は形作られ、共有されていく。村社会だった過去には自分で選ぶことのできなかった文化的主要素、アイデンティティーを今は誰でも能力さえあれば「金銭を払う」行為によって享受することができるようになった。

 

 

産業とかかわっていく文化の未来はもはやボーダレスや細密な嗜好によって人それぞれの生活を成し得ている。国境なき社会とは文化の自由度を上昇させ、より民主的な形へと進むことは間違いないと思う。差別や貧困と言った20世紀の負の遺産をこれから解決していくためには人間の本来持っている文化とのかかわり方とは何かを徹底的に観察研究する必要があると私は考える。人間らしく生きるとはまさに文化をより向上させ、それを発展させていくことと歯車のように動いていくものだと思う。