現代の平和について考えたこと

こんばんは。

 

大体1年ぶりの更新かと思います。忙しいというより大してブログから発信したいテーマが普段あまり見つからず、当分の間ご無沙汰しておりました。Twitterでの発言で十分でしたが、今夜にこうして長い文章を皆さんに伝えたかったのは一つ思いついた最近のニュースなどからの僕なりの感想です。

 

北朝鮮のミサイル攻撃のニュースで最近落ち着かない日々が続いています。もちろん私たちの日常はさほど変わらないのは当然のことで、別段街も変わった様子がない、メディアで連日報道されてるのはどこのことかと思うぐらい、平穏です。新聞やテレビに興味を持てない若い世代にとって連日の騒動はただ自分たちとは遠い世界の出来事としか形容できません。

 

年度初めの、桜が美しいこの春に私たちが見えてないどこかで確実に力強い何かの動きが起きていることは無意識の中にいつも不安材料として漂っています。明日は月曜日なのでまず休日が終わるのがもの惜しいこの時間帯に北朝鮮のことが「さほど気にかかってる」ことはまずないですし、僕自身もそれほど気にすることはないのです。

 

世界の平和が脅かされる事態になっても果たして自分にできることは何もないという既定事実と共に精いっぱい生きていかざるを得ない我々の日常に「遠い国のこと」なんか二の次三の次の、本当に「どうでもいい」としか言いようがなく、出勤時に目の当たりにする人身事故やそのほか交通網のマヒこそ私たちの日常に置いて「避けて通れない脅威」であることは誰も否定できない事実です。

 

仕事につくと心も体も全部人のため会社のため世間のために尽くしていくうちに一日は終わって、うちへ帰るとやっと自分をいたわる時間となり、テレビやネットを開くとそこから今日の出来事が流れてきて、「鳥瞰された私たちの世界」がまた疲れた自分にのしかかって「まさか明日にもなにもないだろう」と一言頭に浮かべながら寝付いていく次第なのです。

 

当事者間の問題としての平和とは「その世界を動かしている」者同士で解決するほかないです。つまり「私たちに世界の平和を守ったり壊したりする力はない」ということです。明日欠勤しても誰かがカバーするだろうし、まさか犯罪さえ起こさない限り世の中の仕組みは壊れません。それは我々に「選択権」がないわけではなく「ただ関わってない」だけのことであり、私たち一人ひとりが世界の構成要素で、時にはかなり重要な役割を果していることは間違いありません。

 

じゃ私たちは傍観者なのでしょうか?

 

自分に世界のことを変える力がないと思うと確かにただ見守っていくほかない、しかし決して私たちが平和を守り切れないことはない、今の時代は北朝鮮の政治官僚やアメリカの首脳部の決定を「拒否するチャンスや権利」は確かにあると思います。どういうことかと言いますと、もしもの時に国民など参政権者はリーダーの政治的な決定を承認しないことが可能だということです。

 

韓国の大統領が罷免された経緯などを見てると我々は自分たちの意思で指導者やそのほかの権力者に彼らの決定を拒絶することは可能です。国の安全や世界の平和はただ「まかせっきり」の状況であり別段私たちに権利がないわけではないのです。

 

じゃ私たちがリーダーに求めているものとはいったい何でしょう?

 

それはその人がその責務についていること、つまり自分の職務を守ることです。その場にいてくれるだけで私たちは安心して暮らしていける、日常を保てるわけです。

 

世界や私たちの身近な場の安全を包括的な意味のいわゆる「平和」とは「自分が自分でいること」から始まり、その責務を果たしていくことから守られると思います。

 

例え世界に脅威をもたらす意思決定により我々の生活は揺さぶられることもあるし、思いもよらない出来事が待ってるのかもしれません。そこに立ち向かうことが平和を守ることであり、それを通じて生活は成り立つのです。

 

当然の常識のようなことばかりで何の疑問も持たれないことなのですが、しかし確実に世界は回り誰かはこの瞬間も何かを決めてゆく、その挟間で「非決定的傍観者」である一般市民は明日を迎えるのです。

 

21世紀ももう17年も過ぎて、平和が既定事実の常識である現代、今一度立ち止まって「平和を規定する要素」は何があるか、それを守るものとは何かを考えてみると、なぜか今ここにいる僕にとってのその脅威とは「いつかたどり着くかもしれない」どこかへと導いてくれて、それは未来と呼ばれたり過去と記録されたりすることでしょう。

 

無力でさえも一つの平和であると信じて僕は明日に向かいます。

 

おやすみなさい。