過去のつぶやきから。

 一人一人見ていくと大して問題ないようですが、人間「関係」になるといろんな葛藤や問題が生じます。自分の世界と相手の世界の間に何かが衝突してるからでしょう。理解しようとすることや相手に合わせようと寄り添うことは既に理解が出来てる段階だと思います。人との違いは色んな枠で決められますが、それはその人の価値観によって変わっていくでしょう。日本だけではなく世界的に見ても色んな空間や人種や文化の中で人それぞれの考え方を持っています。

人間が人間と接するときは何かをやり遂げるためですね。遊ぶことから始めて仕事をすること情報をもらうこととか大切な人の顔を見るとか。そういう関係とは社会によってその構成員の役割が分けられてある作用により結ばれるものだと思うのです。だから「あの人に合わなきゃよかった」とか「この人に合わないとダメだった」とかそこまで強く言えないものではないかもしれません。会えるべくして会えた相手のこと。家族も仲間も同じ。良い人間関係が築けたならばこの上ないですが、もし会いたくなかったと思う相手だったらどう思われるでしょう。

相手を憎んでも問題は解決できませんし、誰かを恨むわけにもいきません。僕の場合にはそれよりも自我からその問題を探るべきだと思います。自分とは何者か。事の発端はまず私ですね。世界は個人主義とまでも言わなくても今の時代には自分を中心に動くものです。

人生とは自分のことですね。自分がいない世の中は想像できませんね。つまり、自分の周りのものは即ち「自分」なのです。要するに自分と世界は相互対照的で補完関係なのです。嫌な人も好きな人も全て自分だと思います。

仏教の唯識思想(一即多、多即一)から見ていくと禅の思想で有名な鈴木大拙先生のおっしゃるように自己と対象になる世界とは自分の心に映った「幻」であり、それは己の心の動きであるとの教えと合致します。大変難しい内容を簡単に紹介することは容易ではないのですが自我とは鏡のようなものだと。

唯識思想といっても小難しい理論ではありません。禅というものは既に我々のDNAの中に刻みこまれています。要は自分がいないと世界も存在し得ないとのこと。その世界に心地のいいものだけがあるはずがないのです。世の中の全てを知ることもしくは受け入れてこそより自分のことが分かってくるはず。

あの数学でさえ答えのない問題があるのですから、もちろん人生にも答えなんかありません。そもそも答えを求めて生きてる人間なんかいません。答えそのものがないのですからそこに近づけることもできないです。人間は「答え」を求めて生きるのではなく、明日に向かって生きるのだと思います。  

人間誰しも「明日は今日よりいいことがあるだろう」といった希望を持って日々暮らすのだと思います。今は苦しくてたまらなくても「明日」があるから耐えるのだと思います。その明日もいつかは死によって途切れても(それを誰でも知ってるにもかかわらず)明日へ向かうのです。これこそ人間の真髄だと。

拙い話が長くなりまして恐縮ですが、お金や地位などよりもおかしいことや苦しいことが満載な世の中を生きてゆく私たちは明日へ向かうために今日も頑張るのだと思います。それがどういう明日であるにしてもまず今日を頑張っていくしかありません。

昨日へ戻ることのできない人間は死よりも明日へと向かう私たちの世界は別々の人間だとしてもきっとどこかで繋がっています。みんな地に足が付いてるし、怒ったり悲しんだり、笑ったり、同じ時間軸で暮らしてる人類はより良い明日へと向かっています。時にはいがみ合っても向かうのは同じ明日。要は希望ですね。以上です。

 

 

※2012年8月に書いた文章をまとめてみました。