秋になると思い出すこと

おはようございます。

 

もう少しずつ、肌寒く感じる季節がやってまいりました。皆様の体調管理はいかがですか。季節の変わり目は服選びなどで風邪をひくことも多いですね。くれぐれもお気をつけてください。

 

10月、誰しも秋だと実感する時期ですね。結構暑い夏ももう昔のかなたです。

 

秋本番に向けて皆様はどういう気持ちで今年の最後を迎えられていますか?

 

お正月に新たな計画や抱負を持ち、今年はこういうことを成し遂げたいと心の中から決めておられたと思います。僕にとっても去年よりは今年をより成長できるように努めてきたつもりです。

 

さて、もうすぐ冬にもなるところですが、まず秋になると気温が下がり、窓を開けて過ごすこともほとんどありません。夏にはいつも部屋の窓を開けて外の音や空気に触れることは容易でした。しかしこれからは窓を閉めたまま一日を暮すことになります。外で今何が起きてるか、空気はどういう「色」をしてるかわかるすべはありません。

 

ただ自分の中の声に集中できる、仕事をするならずっと内面へと向かい合う季節になるのです。冬になれば外出の数も減りより自分の心と向き合う時期にもなるのです。

 

山や渓谷など街の街路樹も彩りどり、赤く黄色く染め始めて、何より銀杏の放つ匂いはこの季節だけの限定サプライズともいうべく、落ち着いた気心地で過ごせることができます。街を歩く人々はコートの姿や結構厚めのジャケットに身を包む方々も増えてきます。時々、片手にコーヒーを持ち歩く方も散見できるのでしょう。

 

話が遠まわしになっていますが、日本の場合、秋が極めて短く感じることが多い、涼しくなったなと思えば、すぐ雪の降る寒い季節と変わります。関東地方の場合には春と秋はそれほど長く感じません。短い季節だけど過ごしやすい気温が続くのですから、この時期こそ心に余裕ができるのではないでしょうか。

 

なかなか暑い季節には目が回らなかった本や音楽、映画などにも興味がわきます。自分と向き合うことができやすくなったうえで、こういった文化との接触はその機会が増えてきます。美術館の展示や演劇、コンサートなどにも足を運びやすくなります。僕もできるだけ今のうちに多くの文化コンテンツに触れたいと思っています。

 

 

もちろん冬にもそのほかの季節にも文化の生活を楽しむことはできます。しかし「秋」という時期になぜかこういった余裕ができるのは時期的にも天候的にも本当に限られた特権を持ってるのではないでしょうか。年末年始やバカンスの季節でもない、少し一息できるのは一年中でこの時期だけかもしれませんね。

 

 

皆様も秋にはいろんな思い出があると思います。よく歌などでは秋は「別れの季節」の印象が色濃く表れています。勢いよく発散してきた夏のエネルギーは秋になると一旦落ち着きはじめます。収穫の時期でもあるように、一年を締めくくる前にちょっと一息というところで、文化に触れることがしたいなと自分は思っています。

 

 

颯爽とした街を歩くうちに何か普段は感じてこなかったものが思い浮かぶかもしれません。安定した季節に、思い残すことなく、何かに感動しておきたいのです。

 

長くなりましたが、この季節に思い浮かんでくる出来事や、記憶に残る公演などがあったら、また今年の頑張ったことが報われるのかもしれません。

 

なんとなく、書き綴ってみましたが、一人でできることにチャレンジできたらいいなと思います。

 

ではお元気で、この辺で筆をおきます。またいずれ書きます。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月の中腹をつかみながら

久しぶりです。社会人の多くはオフィスで過ごす時間が多くて、なかなか外の暑さは実感できない、夏でも暑さをさほど感じない、「大人の夏」も、あともうすぐ来年まで持ち越しですね。

 

 

女性の方はむしろ冷たすぎるオフィスの冷房に呆れて、なかなか軽装を望まない男性社員たちのためのオフィスビルの管理状態に大変なご苦労をなさってるのではと想像します。

 

 

僕もずっと部屋の中で文章ばかり書いてると果たして今が夏なんだろうかとはっきりとした認識はありません。まあ、たまに近くのコンビニに行くぐらいの、すぐ終わってしまいそうな用件だけで、部屋に戻るとまた涼しく過ごせるのです。

 

 

若い頃にはいくら暑くても暑さそのものは苦ではなかったのです。熱中症を患い、病院に運ばれる子供が多いのは、やっぱり自分の限界まで動いてしまうことですから、さほど若い方にとっては「暑さ」に対する感覚は大人とは少し変わるのではないでしょうか。

 

我々が子供だった時代にいっぱい遊んでいた経歴から、夏の暑さとは豊かな自然とともにイメージされその季節は楽しい記憶として、また、成長を促すためのひとつの役を担っていました。

 

 

暑いから外で遊べるといった、子供の発想は大人になってもそのまま頭に残るものです。せめて社会人ならお盆はともかく休暇を取る季節として1年のうちでも最も季節感を感じる頃に違いないと思います。

 

 

休暇があるからこそ夏だといった連想される季節として8月は一年の折り返し時点ですから、年の初めに心で決めたいろいろな計画や願望もどれは忘れ去られたり、また年末に向けて新しいモチベーションに切り替える時期でもあると思います。

 

 

今年の夏も暑かったともちろん皆様感じておられるでしょうし、当分はその記憶が実って今年の暮れに振り返られるものとしての一つの旗印になれるのではないでしょうか。

 

 

長くなりましたが、夏という季節はそういった意味で「まっさか盛り」という言葉が最も似合うような季節であることは、青春の時も今も通用するのではないでしょうか。

 

流した汗の分だけ成果が得られる秋が待ち遠しい、8月の中腹に皆様への挨拶でした。

 

 

ではまた秋の涼しげな季節に伺います。

 

 

何卒お元気で

 

 

 

 

 

 

夏の残影

6月も終わりに近づき、もうすぐ7月、夏の本番を迎えようとしています。

 

 

梅雨が明けて空が碧くなり、積乱雲がもやもやと広がりを見せ、海と水平線を成す頃に、旅行先での風景や仕事帰りの日々の外の様子などが、だんだん私たちの心の記憶の奥に佇んでいそうな映像の片鱗なのだと考えます。

 

若い少年少女の時代に嘗て見てやまなかった空や海の景色は夏とはこういうものだという、イメージカラーを形成していました。

 

碧く広がる頭のてっぺんをみんな共有していく季節こそ、一人でもそれほど寂しくない季節なのだと感じるのです。

 

蝉しぐれと言ったにわか雨や台風の迫る夏は時には背筋が涼しくなり、猛暑の太陽が照り尽している、街のビルや橋の下の流れる小川のせせらぎとともに、ある清涼感もより鮮明にこの季節を跡付けてくれる思い出なのです。

 

ひまわり畑で鬼ごっこをする、里山や川のほとりで遊んでいたあの頃の残影はまた今の子供たちにオバーラップされて、まるで若かった当時の姿が映画になったかのような錯覚を呼び起こして、暑くて長いあの季節を蘇えらせてくれるのです。

 

 

砂利石と石の間を歩いてる蟹を掴み取って、口に入れ、噛んだ時のあの風味も、ひまわりにとんぼが座っているのを手で掴み、女の子へ持っていき、驚かせた時の楽しさもまた夏休みの終わり頃の忘れ難い思い出深く、あのぼんやりしていた頃の一入なのでした。

 

 

木製の電信柱を叩きながら走り回ったり、街の巨木に手を当てた瞬間のその暖かい触感は今はなかなか味わえない、昔だけの限定された世代が思い浮かべられる感覚なのです。

 

 

扇風機のプロペラにあーと声をかけた、汗がまだ乾かない時の顔の涼しさ、線香花火を庭で燃やして火花とともに額に寄せてくる微風もあの頃に感じた夏の感触なのです。

 

 

蚊帳の中で過ごしたあの夏の夜に見た夢は少年や少女を育んでくれたお母さんのうちわの羽ばたくなかでの安らぎなのでした。

 

 

満天の星を数えた分、私たちの夏は成長していったのでした。あの夏を今年も迎えながらも、二度と戻らない夏こそ心のどこかに静かと、眠っているのです。

 

 

 

 

 

日本文化素描

日本の文化を語る上で最も気になるのは、それを作ったり、壊したり、利用したりする客体であると思う。

 

つまり文化を利用する人々は何者かによって、その文化というもののアイデンティティーが形成、作用することである。

 

日本文化と言っても幅広くて主に日本という国で行われている文化形式であろう。まず「文化」というものを語る前に、我々人間の身の周りに広がっている世界を眺めると、そこには何かの共通目的を成す小さい集団やそれを取り巻く環境を思い浮かぶ。会社、公益法人、学校、商店、官公庁などなどありとあらゆるそれぞれの利益集団が存在する。

 

一人個人にとって文化とはその一人ができることに限って、生活環境やその人の身分などによって営為されることが多い。食事をする、買い物に出かける、仕事をする、その上でその人は必ずある集団と出会う。食事の時にはスーパーやレストランと言った利益集団とかかわらざるを得ない。もちろんその主体もある集団に属していないと給料をもらって生活していけない。

 

 

集団と文化はこうして決して離れることができない。つまり文化とは集団のものである。いろんな状況の中で客体は社会性に紛れて個人ではなく何かの利益集団に絡むことによって、利益=目的、至る所に何かの利害関係が生じる。

 

農業社会から産業社会に至るまで、金融貨幣的な側面がいつも付きまとう。金銭で文化を買う時代になった今、民主主義や自由主義の発揚による「文化を選べられる」個人の登場はその個人の集まりである集団の性格を変えてゆく、従来の自然性から人為性の方向へと向かい始めたとも言えよう。

 

 

前近代の農業社会では村からたまたま生まれてきて地域のコミュニティーの中でカルチャーの語源である農業を営みながら社会や生活環境を形成してきた。

 

時代は産業都市への変換とともに村から街へと移り行く。上京して都会で働き都会の文化を成してきたという流れは文化の形や存在意義に大きく寄与した。黄金万能主義といささか批判的なニュアンスとして語られてきてる昨今であるが、間違いなく現代社会において文化とは「利害関係」から抜け出すことはできない。利益を生むことによって文化は形作られ、共有されていく。村社会だった過去には自分で選ぶことのできなかった文化的主要素、アイデンティティーを今は誰でも能力さえあれば「金銭を払う」行為によって享受することができるようになった。

 

 

産業とかかわっていく文化の未来はもはやボーダレスや細密な嗜好によって人それぞれの生活を成し得ている。国境なき社会とは文化の自由度を上昇させ、より民主的な形へと進むことは間違いないと思う。差別や貧困と言った20世紀の負の遺産をこれから解決していくためには人間の本来持っている文化とのかかわり方とは何かを徹底的に観察研究する必要があると私は考える。人間らしく生きるとはまさに文化をより向上させ、それを発展させていくことと歯車のように動いていくものだと思う。

 

 

 

 

 

引っ越ししてきました。

こんにちは。

 

はてなブログに移ってきました。

 

変わらぬ声援をなにとぞお願いします。

 

もうすぐ梅雨の季節。湿った空気で多少快適に過ごせないにしても明るく前向きに!

 

こういう内容を書いてましたが、本文が消えたわけでありまして、大変残念な思いをしてしまいました。

 

また夏場になると挨拶に伺います。

 

では。