現代の平和について考えたこと

こんばんは。

 

大体1年ぶりの更新かと思います。忙しいというより大してブログから発信したいテーマが普段あまり見つからず、当分の間ご無沙汰しておりました。Twitterでの発言で十分でしたが、今夜にこうして長い文章を皆さんに伝えたかったのは一つ思いついた最近のニュースなどからの僕なりの感想です。

 

北朝鮮のミサイル攻撃のニュースで最近落ち着かない日々が続いています。もちろん私たちの日常はさほど変わらないのは当然のことで、別段街も変わった様子がない、メディアで連日報道されてるのはどこのことかと思うぐらい、平穏です。新聞やテレビに興味を持てない若い世代にとって連日の騒動はただ自分たちとは遠い世界の出来事としか形容できません。

 

年度初めの、桜が美しいこの春に私たちが見えてないどこかで確実に力強い何かの動きが起きていることは無意識の中にいつも不安材料として漂っています。明日は月曜日なのでまず休日が終わるのがもの惜しいこの時間帯に北朝鮮のことが「さほど気にかかってる」ことはまずないですし、僕自身もそれほど気にすることはないのです。

 

世界の平和が脅かされる事態になっても果たして自分にできることは何もないという既定事実と共に精いっぱい生きていかざるを得ない我々の日常に「遠い国のこと」なんか二の次三の次の、本当に「どうでもいい」としか言いようがなく、出勤時に目の当たりにする人身事故やそのほか交通網のマヒこそ私たちの日常に置いて「避けて通れない脅威」であることは誰も否定できない事実です。

 

仕事につくと心も体も全部人のため会社のため世間のために尽くしていくうちに一日は終わって、うちへ帰るとやっと自分をいたわる時間となり、テレビやネットを開くとそこから今日の出来事が流れてきて、「鳥瞰された私たちの世界」がまた疲れた自分にのしかかって「まさか明日にもなにもないだろう」と一言頭に浮かべながら寝付いていく次第なのです。

 

当事者間の問題としての平和とは「その世界を動かしている」者同士で解決するほかないです。つまり「私たちに世界の平和を守ったり壊したりする力はない」ということです。明日欠勤しても誰かがカバーするだろうし、まさか犯罪さえ起こさない限り世の中の仕組みは壊れません。それは我々に「選択権」がないわけではなく「ただ関わってない」だけのことであり、私たち一人ひとりが世界の構成要素で、時にはかなり重要な役割を果していることは間違いありません。

 

じゃ私たちは傍観者なのでしょうか?

 

自分に世界のことを変える力がないと思うと確かにただ見守っていくほかない、しかし決して私たちが平和を守り切れないことはない、今の時代は北朝鮮の政治官僚やアメリカの首脳部の決定を「拒否するチャンスや権利」は確かにあると思います。どういうことかと言いますと、もしもの時に国民など参政権者はリーダーの政治的な決定を承認しないことが可能だということです。

 

韓国の大統領が罷免された経緯などを見てると我々は自分たちの意思で指導者やそのほかの権力者に彼らの決定を拒絶することは可能です。国の安全や世界の平和はただ「まかせっきり」の状況であり別段私たちに権利がないわけではないのです。

 

じゃ私たちがリーダーに求めているものとはいったい何でしょう?

 

それはその人がその責務についていること、つまり自分の職務を守ることです。その場にいてくれるだけで私たちは安心して暮らしていける、日常を保てるわけです。

 

世界や私たちの身近な場の安全を包括的な意味のいわゆる「平和」とは「自分が自分でいること」から始まり、その責務を果たしていくことから守られると思います。

 

例え世界に脅威をもたらす意思決定により我々の生活は揺さぶられることもあるし、思いもよらない出来事が待ってるのかもしれません。そこに立ち向かうことが平和を守ることであり、それを通じて生活は成り立つのです。

 

当然の常識のようなことばかりで何の疑問も持たれないことなのですが、しかし確実に世界は回り誰かはこの瞬間も何かを決めてゆく、その挟間で「非決定的傍観者」である一般市民は明日を迎えるのです。

 

21世紀ももう17年も過ぎて、平和が既定事実の常識である現代、今一度立ち止まって「平和を規定する要素」は何があるか、それを守るものとは何かを考えてみると、なぜか今ここにいる僕にとってのその脅威とは「いつかたどり着くかもしれない」どこかへと導いてくれて、それは未来と呼ばれたり過去と記録されたりすることでしょう。

 

無力でさえも一つの平和であると信じて僕は明日に向かいます。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NHKの女子アナウンサーについて考えたこと

 僕はよくNHKのニュースを見ていますが、ニュースに登場する女子アナウンサーはひとめ見て「きれいだな」と思うことが多い。

 

もちろん日本の一番メインのテレビ放送局だし、社会的な責任や役割に置いて大変重要な立場であるから、NHKの自慢ともいうべきニュースやほかの報道番組に置いて、より効率的に視聴者へ情報を伝達するうえ、「見た目のいい」担当を配置することは至極当然であると思う。

 

ほかの民間放送の所謂娯楽性に充実しているような「女子アナ」とは違って、NHKの女子アナウンサーは非常にまじめで、滑舌や言い回しにも一段と高い能力を有していることはもちろん、品性に関しても随一優れているとも言えるでしょう。

 

なんせ、国民から視聴料をいただいてその代わりコマーシャルを一切流せない放送の方針から「俗を離れているエリート集団」としてのNHKアナウンサーのイメージは少なくとも僕には見えている。

 

彼女らの喋り方や服装、身なりなど、普段我々の暮らしている「世間」ではなかなか見当たらないことも確かだと思う。自分の周辺にもしNHKアナウンサーのような女子がいるとしたら、どういうコンセプトで存在しうるのだろうか。

 

家族のほかに職場の同僚、もしくは友達、よく訪れる飲み屋の店員?マダム?しかしよく想像がつかないのである。

 

テレビをつけて毎日映っている「アナウンサー」の姿やその存在って、俗にいう2次元の「キャラ」なので、あの人が現実では普段どう振る舞っているかについては知るすべがない。センター的なメディアとしての「NHK女子アナ」とはほかの民放のアナとは違って、極めてストイックである。僕にはもちろんNHKの女子アナの知り合いはいない。

 

「NHKの女子アナウンサーってきれいな人多いよね」とふとつぶやいたら、友達が「知り合いがいるよ」と紹介してあげると、さりげなく誘ってきたんだけど、僕は敢えて振り切った。テレビでとても誠実に毎日決まった時間に世界のありとあらゆる情報を届けてくれる、その姿とはどこか近づきがたい、少し距離を感じるのである。

 

民放とは違いバライエティなどに参加しないこともあるし、感情を抑制するアナウンサーのオーラは全日本人の床の間のヒロインである。ネットで囁かれることも少なくないにしろ、「箱の中の天使」のごとく、仮に作られた微笑みだとしても誰も憎めない「報道の女優」としてあり続ける彼女たちに時々拍手を贈りたい気持ちが湧く。

 

当然のことだが、彼女らにもプライベートがある。多忙な中でも付き合いもあるし、人生がある。普通のサラリーマンの9時出勤、6時退勤のようには動けない職種の特徴の上に「生活を犠牲にしても」いつもみんなの前に立つその逞しさに感心しつつも、それでも女性だから幸せのある20代、30代があるのではと若干同情する気持ちもある。

 

ただでさえ視聴率の低いNHKのニュース番組で時代によって入れ替わったり、どんどん新しい世代の新人アナウンサーが出てくる間、自然と消えてゆく方もいる。

 

24時間届く電波の中でしきりにうちの部屋まで訪れてくる箱の中の天使は一人暮らしの自分にとってはかけがえのない家族であり、恋人であり、友達である。

 

黙々とした感じがいいのだ。日刊紙や週刊誌、ネットでもお会いできるのは今の時世のこと、外から帰ってきてまたテレビをつけると「現実の出来事」を実感させてくれる、もう一人の母なのだ。

 

 

 

 

 

過去のつぶやきから。

 一人一人見ていくと大して問題ないようですが、人間「関係」になるといろんな葛藤や問題が生じます。自分の世界と相手の世界の間に何かが衝突してるからでしょう。理解しようとすることや相手に合わせようと寄り添うことは既に理解が出来てる段階だと思います。人との違いは色んな枠で決められますが、それはその人の価値観によって変わっていくでしょう。日本だけではなく世界的に見ても色んな空間や人種や文化の中で人それぞれの考え方を持っています。

人間が人間と接するときは何かをやり遂げるためですね。遊ぶことから始めて仕事をすること情報をもらうこととか大切な人の顔を見るとか。そういう関係とは社会によってその構成員の役割が分けられてある作用により結ばれるものだと思うのです。だから「あの人に合わなきゃよかった」とか「この人に合わないとダメだった」とかそこまで強く言えないものではないかもしれません。会えるべくして会えた相手のこと。家族も仲間も同じ。良い人間関係が築けたならばこの上ないですが、もし会いたくなかったと思う相手だったらどう思われるでしょう。

相手を憎んでも問題は解決できませんし、誰かを恨むわけにもいきません。僕の場合にはそれよりも自我からその問題を探るべきだと思います。自分とは何者か。事の発端はまず私ですね。世界は個人主義とまでも言わなくても今の時代には自分を中心に動くものです。

人生とは自分のことですね。自分がいない世の中は想像できませんね。つまり、自分の周りのものは即ち「自分」なのです。要するに自分と世界は相互対照的で補完関係なのです。嫌な人も好きな人も全て自分だと思います。

仏教の唯識思想(一即多、多即一)から見ていくと禅の思想で有名な鈴木大拙先生のおっしゃるように自己と対象になる世界とは自分の心に映った「幻」であり、それは己の心の動きであるとの教えと合致します。大変難しい内容を簡単に紹介することは容易ではないのですが自我とは鏡のようなものだと。

唯識思想といっても小難しい理論ではありません。禅というものは既に我々のDNAの中に刻みこまれています。要は自分がいないと世界も存在し得ないとのこと。その世界に心地のいいものだけがあるはずがないのです。世の中の全てを知ることもしくは受け入れてこそより自分のことが分かってくるはず。

あの数学でさえ答えのない問題があるのですから、もちろん人生にも答えなんかありません。そもそも答えを求めて生きてる人間なんかいません。答えそのものがないのですからそこに近づけることもできないです。人間は「答え」を求めて生きるのではなく、明日に向かって生きるのだと思います。  

人間誰しも「明日は今日よりいいことがあるだろう」といった希望を持って日々暮らすのだと思います。今は苦しくてたまらなくても「明日」があるから耐えるのだと思います。その明日もいつかは死によって途切れても(それを誰でも知ってるにもかかわらず)明日へ向かうのです。これこそ人間の真髄だと。

拙い話が長くなりまして恐縮ですが、お金や地位などよりもおかしいことや苦しいことが満載な世の中を生きてゆく私たちは明日へ向かうために今日も頑張るのだと思います。それがどういう明日であるにしてもまず今日を頑張っていくしかありません。

昨日へ戻ることのできない人間は死よりも明日へと向かう私たちの世界は別々の人間だとしてもきっとどこかで繋がっています。みんな地に足が付いてるし、怒ったり悲しんだり、笑ったり、同じ時間軸で暮らしてる人類はより良い明日へと向かっています。時にはいがみ合っても向かうのは同じ明日。要は希望ですね。以上です。

 

 

※2012年8月に書いた文章をまとめてみました。

 

 

過去ツイをまとめてみました。超短編小説。2013年7月。

昔、ツイートで書いてみた小説をまとめて公開します。

 

 

ソファーに横たわってしばし時間が経った。リビングのドアガラスから夕日が見える。オレンジ色に染まってる空を振り返ってみた。「あ、もうこんな時間」壁に掛けていた時計は4時10分を示していた。ストレッチをして立ち上がりベランダの花に水をやった。バラがちょうど咲き始める頃、楽しい時間。

少しぼんやりまたソファーに座りじっとしていた。首を少し斜めにしながらぼーっと。そういえば、もうあと一ヶ月であの日から一年になる。「ふあー!」とあくびとため息混じりの声を出してテレビをつけてそろそろ黒くなり始めるベランダのドアに目線を向けていた。

「だから、なんだと言うのよ?」「いや、そういうことを言うんじゃなくて、・・」「もういい、帰るから」土砂降りの中で髪の毛がずっしり濡れるまで公園で口喧嘩をしていたあの夜にまた思いを馳せていた。あの人と別れて一年か。あの日は今日みたいに晴れてなかったな。自分を誤魔化すために鼻歌を。

レモンソーダ・・・。ストローを差し込んでコップを持ったままテレビのチャンネルを回す。天気予報、「明日の関東地方は概ね晴れた天気・・・」チャンネル替えを繰り返すうちにもう5時になった。「明日は洗濯しよう」どのチャンネルも天気予報ばかりだったから「明日は絶対晴れます」と言われたが如く。

夕飯は軽く、昨日の残りの材料でなんとかなれそうだから今晩はうちでずっとこのまま。明日は洗濯を済ましたら散歩でも出かけようと思った。「よっし!」合点がついた気になって明日も今日のように納得の日になれそう。

一人で公園を歩いていた際、彼の姿が見えた。眩しい日差しの中から彼の目を見た。私をずっと見つめてる「なぜ?」なぜここにいるの?私は聞きたかった。しかしあまりにも突然の再会だったからすぐ喉から出てこない。彼の唇が動いた。何か話してる、「え?何?」

「はっ!」目が覚めて起き上がったら夢だった。首筋にまで汗が流れてる。ああっと言いながらまたソファーに横たわった。3時か。真っ黒になったドアガラスの外は雨に濡れていた。また今日も雨だった。【終】

初めての自己宣言

こんばんは。今夜は突然ですが、2011年のTwitterのアカを始めて間もない頃に初めて自分に考えを述べたつぶやきの連投をまとめてみて振り返ってみようと思っています。

 

当時の自分が考えていたことを顧みてこれからの糧にしたいと思います。

 

2011年10月3日深夜

 

突然のカミングアウト。韓国人です。ソウルに住んでいます。しかし、韓国語より日本語がうまいです。理由は東京で丸7年留学したからです。語学を1年、大学4年、大学院2年、計7年。2002~2009年まで、帰国して2年です。大学の名前は当分明かしません。不況の煽りの犠牲者です。 

このアカで4個目。結構ずばずばものを言ってきました。ソウルでは日本語を使うことはほとんどないので、ツイッターで日本語を忘れないように利用しています。多くのフォロワーさんに恵まれて感謝です。  
僕ってあまりこだわりとかなくて、敵を作るのが苦手です。人間同士譲り合い愛し合うことをモットーとしてますので、僕のツイートで嫌な思いをされた方は多い目で許してください。まだまだ僕も若いので、足りないところが満載です。 
いつも考えることですけど、偶然知り合った短い縁でも、もしここで別れたら、「永遠」に出会うことはできません。それは家族も友人でも誰でも一緒です。一期一会もそうですけど、仲悪くして合えないともったいないですよね。それでも人間はいがみ合ったりします。それは仕方ないと思いますけど。
 
眠くなりそうな話で申し訳ないですけど、永遠ってすごく抽象的な概念ですよね。しかし、愛とか国家とか、希望とかのように人間はそれを無理なく理解し想像することができます。無限とかも・・・。 
歴史を否定してるわけではなくて、宗教的な観点というか言葉通りの解釈をすると、永遠は人間が発見した最も尊く優れた言葉でしょう。限りのある人生といっても、人間は死を経験することはできないので(死ぬ瞬間意識がなくなるから)永遠を生きてると思います。つまり生きてる間は永遠を生きてるんです 
すっごいお年寄りじゃない限り、いや、そうだとしても人間は明日があると信じて眠りに付きます。それができないと決して眠ることはできないでしょう。ただ以前ツイッターで知り合った方のなかに、「今日で終わるかも」と思って眠られた方が居りました。しかし、確信はできないです、明日がくるまいと。 
私たち人間は朝に生まれて夜死にます。という仮の生と死を繰り返してます。シンプルに考えれば人生ってそれだけの話ですよね。朝起きて仕事や用事を済ませる、ご飯を食べ、遊ぶ人もいる、喧嘩をする人も、苦しんでる人もいる、幸せな人もいる・・・こういうSNSで人間と人間はより距離が縮んだかも。 
しかし、幸か不幸か知りませんが、それにしても私たちの人生は長すぎますよね。昔なら40くらいで生が終わり「人生40年」と織田信長が言ってましたっけ?いまはそれより伸びましたね。科学は進歩して雑多な家事とかは機械がやってくれます。余暇が増えた人間は色々考え始めてます。 
それは人生の答えや意味といったものでしょう。ここで僕が怪しげな宗教の勧誘をしたいわけではないです。それを見た限り人間は昔より進歩したと思います。歴史の進歩史観を僕は肯定してます。昔の人間より現代の人間のほうがより優れてます。 
生まれていつか死ぬことが当たり前だった人間。しかし、日本を限って見ても今はそうではありません。生まれて死ぬことが当たり前ではなくなっています。 

人生の意味とか、欲望とか、幸せになりたいとか、長生きしたいとか、やるべきこと、夢、人としての尊厳とか・・・それらは生きることそのものであり、生きるとは死ぬことの裏返し、生も死も日常ではなく、人間の欲望によってかき消されてゆく物になってました。道具を作ることを覚えた人間は今度は「神の領域に」挑んでいます。人間が人間を作るのです。ロボットとか、人工の臓器とか・・・。相対性理論も否定されましたから、タイムマシーンが実現するかもしれません。神も人間が作ったものとあえて言うなら、もう21世紀になって人間はすべてを手に入れましたおよそここまでが普通に今の社会で認識されてる常識です。こんな言うために時間をつぶすわけにはいきません。今度は僕が言いたいことを言うのです。人間は一人では幸せになりません。人間は一人では生きていけません。皆が皆を支えあってこそ社会は成り立つのです。この世に生まれた人皆は生きるべくして生まれてきた、悪いことをしたら悲しいけど、誰しも父があり母がいる、祖先がいる故郷がある、空は見れなかったとしても空気を吸ってします。「あなたが仮に今絶望に晒されていても」世界はあなたのことを見守っています。この世の中には人がいっぱいいます。一度も幸せになれなかったとしても、嘆く必要はありません。人間は幸せも不幸せも共有しています。絶望はあなただけのものではありません、皆のものです、なぜなら皆同じ人間だからです悲しいこと嬉しいこと、みんなそういう気持ちは違う形でも持っている。これからの時代は「産業発展の時代」から「人間中心の時代」になるでしょう。明日も張り切っていきましょうね。死なないならどうせ生きるしかないのです。書いてから考えてみたら、みんなどこかで読んだような文章・・・これからの時代は全く新しいものを創造することは難しいでしょう。これもどこから読んだ。読んでくれてありがとう、役に立てば何よりです。明日は未来の初めの一日。お休みなさい。ため息が出るほどの長さですが、当時これを一晩かけた書いたようです。今と当時は何がどう変わってるのかは各自判断するとして、自分ここにいる僕はこれからどこへ向かえばいいのか考えるためにも初めてのこの文章を大切に受け止めたいです。ではまたの日にお目にかかります。

 

夏の目前で

お久しぶりにブログを更新しました。時々長い文章が書きたくなるんですよね。

 

東京、関東地方は今日真夏日を記録しましたね。今年初めてでしたっけ?とにかくまた始まったって感じです。くれぐれも体調管理に気を付けてください。

 

 

ソウルは外はもちろん暑いんですけど、部屋の中はあまり暑くありません。むしろ「長い春」が違和感を感じるほど、もうすっかり日本の初夏を懐かしむぐらいです。

 

皆様にとってみれば暑苦しい夏が、特に外でお仕事なさる方はあまり喜ばしくないかもしれません。しかし夏の商戦といい、この季節に一儲けして年中生活していく方も結構いらっしゃるのではないかと思います。ひと夏の夢のように慌ただしい夏はむしろ活気に満ちた季節に他ありません。

 

エアコン、アイス、扇風機、水着、旅行商品などなど、この季節こそ本番を迎える凝集が多くあります。

 

僕の場合、ここ数年夏の休暇を特に過ごしてないです。ずっとパソコンの前、お寺の夏安居(かあんご)のように引きこもって、仮想の世界に沈着していく毎日で、むしろそれが避暑のような役割をなしてきました。

 

あまりまとまりのいい文章ではないので、ご了承いただきたいですが、こうして誰がどこで読んでくださるのか知らず、ひたすらキーボードを打ち込んでいるとそれはまさしく自分との対面なのです。

 

今年も大した予定はなく、今まで書いてきたツイートをなんとなくまとまってきたと感じつつ、少しホッとしていますけど、8月に開設したアカウントで、いつもその頃になると原点に返り「どうして自分はTwitterを始めたのか」という問題にもう一度たどり着くのです。震災があったあの年にいつもの夏とはいい難いあの頃を思い返してみると、どうも今年もそこからものの発端があったのだと感じます。

 

 

夏と言えばまず海を浮かべられる方もただいらっしゃると思います。海は癒しであるはずのことが酷くみんなを傷つけ、命や財産を奪っていったあの未曾有の体験は「愛すべき海」を私たちから奪い去ったと思います。海のことが悪いのか、自然災害は誰の責任なのかで、かなり悩まされること多い、しかし自然が悪意を持つことはないでしょうし、結局備えきれなかった人間の罪ではないかと思いました。

 

 

海は人間のもの、私たちの物であることはいつまでも変わりはなく、水害が起きても誰も海のことを憎みません。海は僕、僕は海、向かい合って夏を過ごすための一つの世界であり、食料や資源の宝庫なのです。

 

「海の声が聞こえますか」

 

 

確かに海は日本列島を囲んでるかけがえのない日本人の故郷だと思います。

 

波打つ音を想像して、あの夏へ戻る。

 

涼しげな海風に頬が涼む。

 

部屋から遠くにある海まで運ばれてくるのは毎年の夏の手紙でした。

 

 

では今年もまた楽しく乗り切れるようにお願いしたいですね。

 

 

 

また時折書いて皆様にお挨拶とします。

 

 

西のほうから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年に得たもの

おはようございます。

 

本格的な冬に突入して、しかも選挙という、とても慌ただしい師走を迎えております。

 

去年も一昨年も、師走の選挙戦で皆様ご苦労なさったでしょう。社会はどんどん個人単位で動き、多様な考え方をSNSで共有し、意見を述べた上に、そのグループごと分かれることが多く、嗜好や好みも人それぞれであります。

 

主にネット社会と称される昨今のメディアや書籍などを通じてこの社会や世界のことにその社会を構成してる構成員らによって、政治の進むべき道を決めたり、伝わってきたりしながら、昔とは違う民主主義の形態を成しています。

 

日々の世界の動きにさほど興味のなさそうな若者層、主に新社会人である20代の男女は、この国の行方にどれほどの興味や関心があるのでしょう。目の前に繰り広げられる出来事が、直接自分と関わらないと言う名目で、彼ら彼女らにさほど影響しない既存のメディアだけが独り歩きしてるような印象を受けるのは私だけなんでしょうか。

 

20歳になる頃だと就職や学業、友人関係や恋愛、自分の趣味などに没頭されることが多くて、なんの面白さも備えてなさそうな政治の動きなどまっぴらごめんだと言う、これからこの国の未来を決めて左右していく主役の出番を自ら放棄してしまうような傾向が多く見られます。

 

彼ら彼女らの思うところは果たして自分がこの国の未来を決めていくことが可能なのかにあると考えられます。自分の意見が、自分の一票が、どれほどの影響力があるのかについては大してこの国を動かせるような力を成し得ないことだと認識しているのです。

 

最近は年齢層が上向くほど投票する方が増えているようです。長い間いこの国の主役を務められた大人だからこそ、その一票一票には多くの想いや気持ちがあって、20代の方とは趣が違うとも評価できるかもしれません。

 

これからの主役の政治参加への放棄は自然と上の世代に負荷がかかります。若者が棄権した分だけシニア層の責任が重くなります。「世界を変えたい」と思っても政治はこの国を変えられないと落胆したばかりか、もはや「政治のない世界」でしか生きられないようにも映る今時の20,30代の方々はこの国での自分の立場というものにさほど気にかからない様子です。

 

ここに私がいるではあっても、この国に自分がいるという認識はあまりなさらないようです。印象的なのは大人の世界という彼ら彼女らにとって忌まわしいぐらいギクシャクする利害関係や意識構造が「ほっといてください」と叫ぶ声が聞くとも知らぬ間にこの社会を投影していると思いました。

 

ここから10年、20年後、今の若者層が作っていく社会とは、きっと政治に無頓着な構成員らによってもっともっと、今よりも政治が機能しない状況になることは自明であります。「政治と共に去りぬ」の今のシニア層がいなくなった場合、その共に去っていった「政治」というものに、今を生きる我々が記憶しておくべきものとは果たしてあるのでしょうか。

 

「あの時代はよかった」とよく口にされる大人たちも、若い世代の時代にはきっと政治にそれほど興味がなかったのかもしれません。詰まるところ、この国の在り方の答えはここから20年後に現れるかもしれません。もしその時にもう遅いと思わないようにもより積極的に政治へ参加していくべきなんでしょうか、それとも今のシニア層のようになるまで「眼の前のこと」置かれてる現状に甘んじることでよいのでしょうか。

 

 

答えは20年後にあると思います。

 

 

長文を読んでくださりありがとうございます。